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昨日ナオちゃんと横浜デートに行きました。
美味しいものも食べたし海も景色も満喫したし、ナオちゃんとは初対面だったんだけどものすっごく楽しかったです!!
さすがたちなゆちゃんの生みの親でもうかわいい〜愛らしい〜好きだ〜〜〜ってずっと言ってたんですけどしつこくてごめんなさい
でも、今回はそのレポじゃないんだ〜
二人でおしゃべりしてて、お話を書くことの難しさとかについて考えていたんだけど、その中でとても面白いなあと思ったことがあって、メモしておきたいなあとおもったので、ずらずらーっと書いてみました。
長く長くなりますので折りたたんでおきます。
あれはひと通り横浜を歩きまわり、ジョナサンでお絵かきしながら、ギリヴ文字書きあるあるみたいなのを話し合ってた時のこと。
文字書きさんにはわかってもらえるかもと思えるレベルの話で、絵師さんにはへえ、って感じの話だと思うのですが、「よその子を借りる」ときの話です。
よそのこを借りるときってどうしても自分の中に一度そのキャラを落とし込まないとかけないわけであって、つまりそれはわたしの妄想とかわたしの脳内フィルターを一度通すことになるので、完璧にオリジナルと完全一致するわけではないわけですね。
この子を書いて、あるいはこの子を書きたい、と思っているのに、書いてるうちに、「この子」は「この子」じゃないような感じがしてくる。
どうしても雰囲気は違ってくるし、それがよその子を借りるときの一番の悩みどころだったわけです。
でもナオちゃんとおしゃべりしているうちに、彼女が、
「(何とかさんが書くときのうちのこは、)その妄想(補正)も含めて好き」
って言ったのを聞いて、わたしちょっとびっくりしたの。
それで、ああ、そうか、って思った。
つまり彼女は「あなたに書いてもらいたい」っていうあこがれの人や、「その人が書くうちの子を愛でる」っていう意識を持っているんですよ。そしてそれってすごくカッコイイことなんですよ。
わたしは今までの傾向として、誰かの書いたものを読むことよりも、私自身が書くことがメインで、つまりよそのこを借りて書くことのほうが多かったんです。でもナオちゃんのお話聞いてたら、これすごく意外だったんだけど、出発点としては私と逆だったの。なんていうか、すごく、そっかあ、すごいなあ!、とおもって!
わたしの中にはあまり、「誰かが書いたうちのこを愛でる」っていう考えがなくて、書いてもらえるのはめちゃくちゃ嬉しいんだけど、それはどちらかというと、「うちのこを書いてくれた!」っていう嬉しさだった。こんなにややこしい設定のうちの子を上手く汲み取って書いてくれてる、嬉しい!!っていうね。つまりオリジナルにどれだけ近いかっていうことを無意識に考えていたわけです。そう思ったら、もう自分が恥ずかしくなっちゃって…!!
考え方というかスタンスの違いなんだけど、たぶんナオちゃんが言ってくれなかったら気づかなかったと思う。たぶん究極論ギリヴとか創作っていうのは自己満足の世界だから、何を愛でるかっていうのは人それぞれだし何が良くて何が悪いっていうのはないしあったとしてもあんまり関係ないの。その人が良ければいいわけなので。だからその分一人の世界に、内側に内側に閉じこもっていく傾向にあると思うのです。自分にとっては当たり前だと思っていた考えが、実はそうじゃない考え方もあるんだって、感覚ではなく体験として得られる快感というのは、とても素晴らしいし幸せなことだなあと思ったの。
ナオちゃんみたいに、「あの人が書いたうちのこが好き」って思える人って貴重なんじゃないだろうか。そういう人とネットの海で出会えて、お友達になれて、住んでいるところも全然違うのにああやって顔を合わせて、たくさん話し合えたことって、もう奇跡に近いんじゃないんだろうか。そしてその出会いが自分の考えを改めて考えなおすきっかけになるって、もうもうほんとにスゴイことじゃないですか。
本当にあえてよかったなあと、今更しみじみ思ったりして、幸せな気分に浸ったりして、それがまた、もっとがんばらなきゃなあって思う力になって、みんなに出会えたギリヴ界に感謝するわけです。
それって単純だけど、スゴイ力だと思うよ。
ナオちゃんありがとう!
また一緒に、どこか遊びに行こうね〜
美味しいものも食べたし海も景色も満喫したし、ナオちゃんとは初対面だったんだけどものすっごく楽しかったです!!
さすがたちなゆちゃんの生みの親でもうかわいい〜愛らしい〜好きだ〜〜〜ってずっと言ってたんですけどしつこくてごめんなさい
でも、今回はそのレポじゃないんだ〜
二人でおしゃべりしてて、お話を書くことの難しさとかについて考えていたんだけど、その中でとても面白いなあと思ったことがあって、メモしておきたいなあとおもったので、ずらずらーっと書いてみました。
長く長くなりますので折りたたんでおきます。
あれはひと通り横浜を歩きまわり、ジョナサンでお絵かきしながら、ギリヴ文字書きあるあるみたいなのを話し合ってた時のこと。
文字書きさんにはわかってもらえるかもと思えるレベルの話で、絵師さんにはへえ、って感じの話だと思うのですが、「よその子を借りる」ときの話です。
よそのこを借りるときってどうしても自分の中に一度そのキャラを落とし込まないとかけないわけであって、つまりそれはわたしの妄想とかわたしの脳内フィルターを一度通すことになるので、完璧にオリジナルと完全一致するわけではないわけですね。
この子を書いて、あるいはこの子を書きたい、と思っているのに、書いてるうちに、「この子」は「この子」じゃないような感じがしてくる。
どうしても雰囲気は違ってくるし、それがよその子を借りるときの一番の悩みどころだったわけです。
でもナオちゃんとおしゃべりしているうちに、彼女が、
「(何とかさんが書くときのうちのこは、)その妄想(補正)も含めて好き」
って言ったのを聞いて、わたしちょっとびっくりしたの。
それで、ああ、そうか、って思った。
つまり彼女は「あなたに書いてもらいたい」っていうあこがれの人や、「その人が書くうちの子を愛でる」っていう意識を持っているんですよ。そしてそれってすごくカッコイイことなんですよ。
わたしは今までの傾向として、誰かの書いたものを読むことよりも、私自身が書くことがメインで、つまりよそのこを借りて書くことのほうが多かったんです。でもナオちゃんのお話聞いてたら、これすごく意外だったんだけど、出発点としては私と逆だったの。なんていうか、すごく、そっかあ、すごいなあ!、とおもって!
わたしの中にはあまり、「誰かが書いたうちのこを愛でる」っていう考えがなくて、書いてもらえるのはめちゃくちゃ嬉しいんだけど、それはどちらかというと、「うちのこを書いてくれた!」っていう嬉しさだった。こんなにややこしい設定のうちの子を上手く汲み取って書いてくれてる、嬉しい!!っていうね。つまりオリジナルにどれだけ近いかっていうことを無意識に考えていたわけです。そう思ったら、もう自分が恥ずかしくなっちゃって…!!
考え方というかスタンスの違いなんだけど、たぶんナオちゃんが言ってくれなかったら気づかなかったと思う。たぶん究極論ギリヴとか創作っていうのは自己満足の世界だから、何を愛でるかっていうのは人それぞれだし何が良くて何が悪いっていうのはないしあったとしてもあんまり関係ないの。その人が良ければいいわけなので。だからその分一人の世界に、内側に内側に閉じこもっていく傾向にあると思うのです。自分にとっては当たり前だと思っていた考えが、実はそうじゃない考え方もあるんだって、感覚ではなく体験として得られる快感というのは、とても素晴らしいし幸せなことだなあと思ったの。
ナオちゃんみたいに、「あの人が書いたうちのこが好き」って思える人って貴重なんじゃないだろうか。そういう人とネットの海で出会えて、お友達になれて、住んでいるところも全然違うのにああやって顔を合わせて、たくさん話し合えたことって、もう奇跡に近いんじゃないんだろうか。そしてその出会いが自分の考えを改めて考えなおすきっかけになるって、もうもうほんとにスゴイことじゃないですか。
本当にあえてよかったなあと、今更しみじみ思ったりして、幸せな気分に浸ったりして、それがまた、もっとがんばらなきゃなあって思う力になって、みんなに出会えたギリヴ界に感謝するわけです。
それって単純だけど、スゴイ力だと思うよ。
ナオちゃんありがとう!
また一緒に、どこか遊びに行こうね〜